社会

死刑の賛否


死刑についての話。

周知のように、オウム真理教の地下鉄サリン事件の犯人 7 人に死刑が執行された。

地下鉄サリン事件と言えば、世界初の化学物質によるテロ事件であったというだけでなく、教団が自力で無差別殺人に使う物質を製造したこと、そのための施設を所有していたこと、地下鉄サリン事件以外にもテロを企図していたことなどがその後明るみになるなど、まさに驚天動地の大事件だった。

社会の在り様を変えようと意図することは構わないと思うが、そのために人を殺していいとは全く思わない。やりたければ言論でやれ、というのが個人的なスタンスだ。

オウム真理教の行為は全く独善的であり、反社会的なものだった。

事件以前、教団の本拠地の近くに住んでいた自分としては、選挙のたびに妙な服を着て妙な踊りを踊っている連中がいるな、程度の認識だった。が、その後彼らが選挙で勝てないなら実力行使だとテロリズムに走るとは想像もしなかった。

きっかけ

そういえば死刑への賛否を考えることが、その後色々物事を考えるきっかけの一つだった。

高校の授業で死刑の賛否について論じるレポートの課題が出た。当時は「そりゃいくら犯罪者でも人を殺したらいかんでしょ」と死刑賛成で書き始めた。ところが、書いていくにつれ論調が変わり、途中で死刑賛成になった。死刑反対だったはずなのに、A ゆえに B、B とはつまり C であると書いていくと、死刑を拒否できなくなった。

結局そのレポートは丸ごと書き直して、死刑賛成で提出した。

そこから、理詰めで書くと印象とは逆の結論が導き出されることがあるということがわかり、個人的には印象に残った。

加害者の人権の前に被害者の人権は?

死刑制度賛成の声には、非人道的であるというものと、冤罪の可能性を排除できない、というものが論拠になっているように思う。

諸外国ではどうだか知らないが、日本の国内法では、死刑になるような犯罪を犯して逮捕され法廷に引き出された者は、複数の殺人を犯していることが多い。

「加害者にも人権はある」という声はよく聞くが、では問いたい。「被害者の人権はどうなったのだ?」

相手の人権を究極まで侵害しておいて、つまり他人をその人の同意なく殺しておいて、自分の人権は守られるとは、まったく都合のいい話ではないか。

相手の人権をこれ以上なく蹂躙したのだから、その人の人権は停止される、ないし同じような目に遭うということは、死刑をしないよりよほど公平だと個人的には思う。

それに、せめて死刑にして遺族の処罰感情に報いるという要素もある。死刑反対派の弁護士が自分の子供が殺人事件の被害者になった後は、死刑賛成派になったというのは有名な話だ。

冤罪の可能性については、確かに一理あるわけだが、必ずしも同じ議論の俎上に乗せなくてもよいのではないかと思っている。

なぜなら、死刑制度の有無にかかわらず冤罪を限りなく防ぐ制度設計というのは検討され続けるべきだからだ。

冤罪があるかもしれないから死刑はダメだけど、懲役刑ならいいのというのも幾分無理筋ではないだろうか。

諸外国からの介入の拒否

欧米諸国では死刑を廃止しているところが多く、今回の死刑執行に反対する声明を出した国もある。

外国で警官が武器を携帯し、現場で犯人を射殺してしまうこともある。日本の警察が現場で犯人を射殺したという話はほとんど聞かない。

凶悪な犯行が確認されたからと言って現場で射殺してしまうことと、それでも生きたまま逮捕し、法廷で量刑を問うことと、その結果が死刑だとしても、はたしてどちらが人道的だろうかという疑問は大きく主張しておきたい。

そもそも原則として、国内に外国の法は及ばないわけで、諸外国から死刑があることの是非を言われることは、内政干渉にあたる。だから「大きなお世話だ」と言っておけばよい。

とはいえ、死刑の是非についての議論までなくて良いとは思わない。死刑についての議論が重ねられて、国民的な論調として廃止となるなら死刑は廃止されるべきだろう。ただ、今はそうではないというだけだ。

議論の蓄積をめんどくさがってはいないか

この話についてだけじゃないが、「おれたちのことはおれたちで決める」という強い意志がなくてはならない。何かというと「海外では~」と始める人がいるが、海外の事例を参考にするとしても、「じゃあおれたちはどうするんだ?」という発想がなくてはならない。

意見の違う他人と議論することは疲れるし面倒だし、労力の割に妥協点が見つかる保証もない。だがそれでもやらねばならない。我々は我々の社会の一員であり、我々こそが自分が暮らす社会について責任があり、またその影響を受ける立場にあるからだ。

せっかくインターネットという便利な道具があるのだから、死刑制度だけじゃなくて社会のあらゆる点についてより一層の発信がなされればよいと思う。多角的な視点から多角的な検討がなされることで、社会はより良いものになる可能性が高まる。

ただそのためには発信する人には冷静なに事実に基づいて検証を行う態度が求められる。なんでもかんでも○○が悪い、とにかく日本は遅れている、そういう発信の仕方では嘘やデマを拡散するだけだ。それは社会の益にならないどころか有害ですらある。

今の社会がどうなるかはおれたちの手にかかっている。次世代にツケを云々と行っている場合じゃない。今を改善できないものは、将来も何一つ改善できないだろう。

-社会

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。