社会 政治

ウェディングケーキを巡る一悶着

2018/06/13


こんな話があった。


話の経緯はこんな感じ。多少前後はあるかも。

・ゲイのカップルがケーキ屋に来店。
・カップル「おれたち今度結婚するからウェディングケーキを注文したい」
・ケーキ屋「宗教上の理由で断る」
・カップル「ひどい!訴える」 → 州の人権委員会へ
・人権委員会「宗教上の理由で同性婚を認めないからと言って注文を断ったらあかん」
・ケーキ屋「じゃあもうウェディングケーキ作らない」 → 収入が 40% 減少 → さらに裁判へ
・高裁「注文断ったらあかん」
・事情が報道され、ケーキ屋に批判や脅迫のメールや電話が来る。
・最高裁「同精魂の自由と同様に宗教の自由もある」

弁護側の弁護士が言っているように、(州法で認められていれば) 同性婚の自由もあるし、同様に信仰の自由もある。まさにこれなんだよね。

確かにカップル側は同性婚を理由にウエディングケーキを断られて傷ついたかもしれん。そこには同情する。ただ、法的に認められているからと言って、同性婚に根強い抵抗があることもまた知らなかったはずがない。

だったら、同性婚でもウェディングケーキを作ってくれるケーキ屋を探せばいいだけの話で、6 年もかけて最高裁まで持って行くような話かね?と日本人のおれは思うのだが、これもまた訴訟社会アメリカだからってことだろうか。

過剰な主張は社会の分断と衰退につながる

一つ仮定を考える。

今後、この現場となったコロラド州をはじめ、アメリカの同性婚を認めている州では、同性婚カップルがウェディングケーキを注文しようとするときに、事前に注意深くリサーチをするようになるだろう。

そして多分それらをまとめたようなサイトが作られて、LGBT のような性的マイノリティと言われる人達は、「あそこの店はダメだ、ここの店はイケる」という風に、そこで情報収集をするようになるかもしれない。

これが著しく進行すると、性的志向のみならず、人種、宗教などありとあらゆることについて、どの店は OK でどの店がそうでないのかということを事前に確認しないと、買い物一つできないということになる。そして、その判断は、その店の意図がどうかにかかわらず、一人二人の客が「『ダメだ』と感じた」というだけの理由で下される。

性的志向、宗教、人種などの要素によって行ける店と行けない店ができるということは、非常に不経済だ。今まではその町の市民全員が潜在的な顧客だったのに、ある特定の集団は相手にできない店ができるということになる。

これは、経済活動の効率性を落とすだけでなく、「あの店に行っているということはあの人は○○だ」という見方が生まれ、社会に分断と軋轢を生む。摩擦が高じれば訴訟になったり、デモが起きたり、暴動になったりするだろう。

これでは誰も得しない。自らの主張を突き合せた結果、非常に非寛容な社会ができあがる。

マイノリティが声をあげたからと言ってそれが即正義にはならない

今回のアメリカの訴訟沙汰で、「ケーキ断られたくらいで 6 年もかけて裁判って」という声と同様に、「ケーキくらい作ってやればいいじゃないか」という声もあるだろう。

裁判としては一応、店側の勝訴ってことになってるらしいんだけど、まあ、はっきり言ってどっちもどっちだと個人的には思う。

■米最高裁、同性婚へのケーキ販売拒否で「信教の自由」の行使認める
https://www.sankei.com/world/news/180605/wor1806050020-n1.html

今回の件で二つ気に留めておきたいのは、「自身の自由を主張する自由と同様に、相手にも相手の理屈を主張する自由がある」ということと「マイノリティが『差別だ!』『不当だ!』と声をあげたとしても、それが即社会に変革を迫るものだとは限らない」ということだ。

報道ベースでしかないが、LGBT を始めとするマイノリティの人々やポリティカルコレクトネスを主張する人々は、マジョリティを叩くことで、自らの地歩を拡大しようとする傾向があるように見受けられる場合がある。

もちろん、「男だから」「女だから」「ゲイだから」「レズだから」という理由で行動や発言の自由を妨げられてはいけない「場合もある」。

ただ一方で、今まで社会が積み重ねてきた「常識」というのもあるわけで、「そうは言っても常識的にどうよ?」という反論は当然成立しうる。

例えば同性婚は「じゃあそもそも結婚って何?」という疑問にすぐ行き当たるし、夫婦別姓なんかも同様だ。

社会が数百年かけて積み上げてきたものを「自分たちはこうしたいから」という理由で、それを容認することを声高に迫るのはあまりフェアな姿勢とは言えないように思う。

それはゆっくりと時間をかけて丁寧に説明を繰り返して、社会の (つまりできるだけ多くの人々の) 理解を得るようにつとめていかなければならないし、急進的に「いいからこれを認めろ!」と言ってはそれこそ反社会的な存在になってしまう。

よほど偏りのある社会でない限り、特に先進国と言われるような国では、大多数の人々は社会の段階的な改善は望んでも、急激な変革は好まない。

だから一度社会制度を変更すると、それをまた取りやめるには時間がかかる。まあ、アメリカという国は「とりあえずやってみる」精神の国でもあるのだけれど。

それに、こういうデリケートな問題には正義とか悪は存在しない。1 と 0 で割り切れる話ではないからだ。

度々言っているかもしれないが、「多様性」とは、「自分と絶対に相いれない他者が存在することを認めること」でもある。だから、それを主張する人は寛容で器が大きくなければならない。

他人に何かを強要してそれが多様性だと言い張って気持ちよくなっているだけでは、多様性が泣くというものだ。

今回、ケーキ屋の信教の自由が守られたわけだが、上記の報道にも「多くの判事が同性愛者の法的権利を擁護した」とあるように、もともと一筋縄ではいかない問題が最高裁まで行ってしまったために、今後尾を引くだろう。

個人的には「喧嘩両成敗」的な良い判断ではないかと思うが、それが即問題の解消につながるとも限らない。

今後いずれ同様の問題が日本でも起きるだろう。じゃあその時、日本の社会はどうすべきだろうか?

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