社会 文化

点と線と面の話 2


前回話がとっちらかって終わったので今回はコンパクトに行こうと思う(笑)。

線と面を生きている

20 年前ドイツに留学した時、おれは何も知らなかった。自分が誰かも知らなかった。

自分が誰かっていうのは、自分がどういう国に生まれて、どういう文化的社会的背景を背負っていて、そして今自分の国がどういう仕組みになっているかということ。

はっきり言って、「自分の国が日本と言う名前」くらいしか知らなかった。

そんなぼんやりした人間が、彼の地でエリート意識の強い (今で言う「意識高い」とはまた違う) 連中に「お前は何者なんだ」と詰められてさんざん凹まされた。

とは言っても、直接「お前は誰なんだー!」と禅問答のようなことを言ってくるやつはいない(笑)。

後から考えて、「ああ、あれはこういうことだったのか」「これはこういう意味だったのか」と理解したというだけ。

よく「欧米人は自己主張が強い」ということを言うんだけど、まあ実際そうだよ。会話するときの距離も近いし、すぐハグしたがるし。

でもそれって中国人だってそうだし、東南アジア人もそうなんだよね。中東とアフリカの人のことは良く知らない。

その理由を考えておれが理由の一つとして到達したのが、「彼らの国は隣国が陸続きである」「陸続きの隣国と接してきた歴史がある」ということ。

かつてアレクサンドロスが地中海沿岸を席巻したように、モンゴル帝国がユーラシア大陸に覇を唱えたように、陸続きの隣国があるといつ外敵の襲撃があるかわからない (その可能性が島国より高い) 時代が長く続いた。

その中で彼らは「おれたちは○○人だ」「おれたちは○○に帰属している」と強く主張する必要があった。でないと命に関わるから。

でも日本にだって隣国が地続きだった時代があるじゃん?

平安時代くらいまでは東北以北は朝廷の支配が及んでなかったし、戦国時代は封建領主がそれぞれ疑似的な独立国として争っていた。それに樺太を領有していた時期はロシアと陸続きだった。

そう考えると日本人にアイデンティティが希薄なんじゃなくて「今の日本人」がぼんやりしてるというだけの話なんだ、おれがぼーっとしていただけだったんだということが分かる。

自分らしさ?

在独時にフランクフルトの空港で野宿した時に、居合わせたイスラエル人と話をしたことがあった。

彼は自分の国がいやで安心して暮らせる新天地を求めて旅をしていると言っていた。現代のディアスポラみたいなもんだな。

彼の故郷は軍事的な争乱が頻発していたそうで、おれに「キミの国では壁に砲弾の穴が開いているか」と尋ねた。

「まさか。そんなものはない」と答えた。彼は「じゃあ日本もおれの旅の行き先に入れることにするよ」と笑っていた。

彼の言う「安心して暮らせる」とは、「現実問題として命の危険が無い」「さっきまで話していた隣人がミサイル攻撃で死なない」という意味だった。

当時のおれは全く理解していなかったと思う。もちろん、文字情報として「世界では今も戦争が続く国や地域がある」ということは知っていた。けれど、それはただの情報だった。

国を捨てて旅ができる余裕があって、自分の意思で安住の地を探せるという点においては、彼はまだ幸せな部類に入るのだろうと思う。

なぜなら彼の祖国では命が長らえるように祈ることしかできない人も沢山いただろうから。

帰国したおれが自覚したのは「自分がアイデンティティが希薄な人間だ」ということだった。プラトンで言うところの「無知の知」ってやつだな。

当時に限った話ではないが、「自分探しの旅」みたいなことをメディアは喧伝する。

「本当の自分」「自分らしさ」を探すことが良いことだという風潮だ。まあそれ自体は悪いことではない。

が、メディアはそれが見つかった人がどうなるか、見つけられなかった人がどうしているかはなかなか伝えてはくれない。

「自分」とは人それぞれなので、これといった正解が無いせいかもしれない。

そこで、それぞれに異なる解、あるいはそれに近いものに近づくための一手段として、「点と線の思考」を挙げたいと思う。

それってなんなの?ということで続く。

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