文化

なぜひとは俺TUEEEEしたいのか


昨日の記事で「なろう小説」について書いたんだけど、一つ気になることがあるんだよね。

既存のファンタジーものや少年漫画なんかでは、主人公は話の最初は能力が低く、話が進むに連れて敵を倒す能力を身につけたり有力な人材が味方についたりして、最終的には当初の目的を達成する。

まあこんな感じだ。

この手のジャンルでは、一般的には「力及ばずの主人公が努力と仲間の助力によって成長して勝利を手にするのが良いのだ」と解釈されているだろう。

はたしてそうだろうか。

新興ジャンルである「なろう小説」あるいは「異世界転生モノ」では、たいてい主人公はスペックカンスト(最強)状態であることが多い。

弱い主人公が成長することが面白みなのであれば、異世界転生モノがこれほど流行るはずはない。

ところが、作中で主人公が最強であっても、面白い物語は作られている。

ということは、我々は主人公の強さ云々で話の面白さを判断しているのではないということになる。

思うに、チート主人公というのは、既存のこれから成長する弱い主人公へのカウンターなのだろう。

弱い主人公を操作して強くしていくのはゲームの鉄板だし、漫画の王道だ。

それへのカウンターとして、最初からもうこれ以上強くなりようがない主人公が立てられる。

ということは、結局はストーリーの肝は人間ドラマだったり、内面の成長だったりになる。

あるいは、人間とは、生命とは、善とは、悪とは、のようなな普遍的なテーマについて一定の解を出すことの方が、読者は面白いと感じるのだろう。

逆に武力の面では全く無能と主人公がいてもいい。

まあこの場合は話が策略的、政治的になりすぎるから子供向けではなくなったりサスペンスになるかもしれないけど。

逆にカウンターだけというのも面白くないというか成り立ちづらい。

最強の魔王が世界を征服した後の安定した世界の話を書かれても、日常系の話になってしまうので、スペクタクルを求める人には大して面白くないだろう。

主人公の強弱は手段

ある弱い主人公がいて、世界を救う宝物を探して旅に出るがそれを手に入れるためには魔王を倒さないといけない、みたいな話があるとする。これを逆算で考えてみる。

この話の最終的な目標は、世界を救う宝物を手に入れられるかどうか、にある。

そのためには、それを守護する魔王を倒さないといけない。

そのためには、魔王を倒す手段を手に入れたり身につけないといけない。

そのためには、剣と魔法のレベルを上げたり、有能な仲間を見つける必要がある。

ということで、主人公が強くなるというのは手段でしかないことがわかる。(重要な要素であるにしても)

つまり、ここで主人公が話の最初に「弱い」という条件設定は必須ではないということだ。

チート主人公でも、「物理的な成長」以外の要素が描ければ面白い話になることができる。

まあもちろん強大な敵や越えるのに困難が予想される障害が出てくれば、読者の共感と感情移入を得やすいのかもしれないが、この手のストーリーテリングはジャンプに任せておけばいい。

ということで、主人公がTUEEEEEなのかYOWEEEEEなのかは必ずしも絶対的な要素ではないということだ。

「なろう」系で俺TUEEEEな主人公が濫発されているのは、今までの王道に対するカウンターで、カウンターの要素を含む話全体の面白さを評価する読者がいるためだろう。

とはいえ、なろう小説の異世界転生ものはあまりにもテンプレなストーリーが多くて、ある程度数を読んでいくと読んでいる側の方があの作品とこの作品の違いを区別できなくなる有様だ。

ゆえに「なろう系」の呼称に揶揄が込められるわけだが。

コミカライズやアニメ化も粗製乱造の段階に入った感があり、今後遠からず淘汰の時期に入るだろう。

いずれにしろ、面白いものは商業作品として世に出るし、そうでないものは「小説家になろう」サイト内で評価を集められず世に出ずに終わる。

テクノロジーがネットワークを発達させ、映像と動画を爆発的に普及させる一方で、文字と小説にもあらたな動きをもたらすとは、面白い現象と言える。

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