文化

新しいことだけが良いことだとは限らない


科学技術は日々進歩し、我々はその恩恵にあずかっている。

新しい技術とそれにともなう商品開発が人間社会を物質的に豊かにしている。

そのせいもあってか、新しいものすなわち良いものと考えがちで、同時に古いものは良くないもの捨て去るべきものとも考えてしまう。

一時期在日/訪日外国人による日本観察の記事で以下のようなものを目にすることが多かった。

曰く、流行の最先端である原宿の真隣に巨大な森がありその奥に国は天皇を神として祀る神社がある。

曰く、東京のビル街にはその谷間に時折祠や小さな社があり近隣の勤め人はそこに手を合わせる。それらは近隣の住民による手入れや企業の出資により守られている。

新しいもの「だけ」が正しいのなら、こういったものは存在せず、一面のビル群、一面の商業地域が広がるはずだが、実際はそうはなっていない。

それは我々がそう考えたからだ。

もちろん、古いものが時代に合わずに現代を生きる我々の妨げになっていると感じられるものもある。

例えば、悪い意味での共同体意識、悪い意味での体育会系、不合理な因習の継続など。

しかしそれらも一面的な存在ではなかった。

共同体意識の解体は個人主義の横行に繋がったし、不合理と思われた習慣を廃したところ地域の伝統文化が失われたりした。

そういうことを考えれば新しいものを取り入れることも取り入れないことも、古いものを捨てることも持ち続けることも、一長一短といえる。

現在国連加盟国は約200ヶ国あるが、その1/3程度は1945年、第二次世界大戦終結以降に独立した国だ。

それらの国は、現在のその国としては100年に満たない歴史しか持たない。

しかし、今の国がそうだとしても、その土地には数千年続く歴史がある。

まして2000年以上の連続した歴史があり、国号を現在確認できる限りにおいて一度も変更したことがない我が国が、そういう歴史や文化を尊重しなくてよいはずがない。

1945年以降に独立した国の多くはアジアとアフリカの国で、彼らは土地や文化を守りたくても西洋人の圧倒的な軍事力の前にそれがかなわなかったのだ。

一時期占領を許したとは言え、19世紀から先進国であり続けた日本は、彼らのためにも先進国であると同時に伝統と文化の保護者でもあるべきではないかと思う。

親日的な外国人による日本評では「日本は先端技術と伝統のハイブリッドだ」と言われる。

欧州からの入植者の子孫が建国したアメリカでは、アメリカ民族衣装というものはない。あってもネイティブアメリカンのものくらいだ。

日本では、新年には和装で先の明治神宮に初詣に行く人もいるし、卒業式なんかでは袴をはき、夏には浴衣を着、今でも神前式で紋付袴、白無垢で結婚式を挙げる人も多い。

一方でそういう人々も普段はスマホを持ち歩き、高度に発達した公共交通機関を利用している。

現代と伝統との融合とはそういうことだ。

さらに言えば、最新の学説によりそれまでの学説が覆されることがある。

例えば神話と思われていた古事記の記載のいくつかが事実であったと確認されたり、縄文時代が以前知られていたよりずっと古くからありかつ豊かな生活をしていたというように。

新しかったものをさらに新しいものが覆して、結果として古い記述が事実だったと確認されたということだ。

というように、新しいものだけが全て素晴らしく、古いものには一様に価値が無いと断じることはできない。

もちろん、新しいものを取り入れることに圧倒的なメリットがあり、古いものを維持することの弊害が大きいなら、新しいものを採用すれば良い。

それは個々の事象においてそれぞれ関係する人々が判断することだ。

ただ、古いものを破棄すると、それを復興させようとしたときには膨大なエネルギーがいるし、そうしても復旧できないこともあることだけは、心に留めておかねばならない。

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