社会

学校の勉強は何のため?


なんのために勉強するのかを学生に理解させるのは学生じゃなくなった人の仕事の一つかもしれない。

自分は今まで「悪いやつに騙されないため」という説を言ってきた。

それはたとえば訪問販売のセールストークやテレビの「〇〇が健康に良い」を見て翌日慌ててスーパーに突入しないためだった。

このシールを貼ると電磁波が弱まると言われて「そうなのか!」と財布を開けないためであり、水素水と聞いて「なんか体に良さそう!」とのぼせあがらないためだ。

学校の勉強が何を教えてくれるかと言うと、世の中には色んなものがあるということであり、それらのうちのいくつかに興味を持つヒントだったり、社会に出てからの基礎の基礎になることだったりする。

あとはまあぶっちゃけ死なないための知識だったり、高校までの内容はみんなやってるから身につくかどうかはともかくやったことあるということくらいは把握しとけということ。

で、最近はもう二つあると思っている。それは、

・自分が言いたいことを他人にきちんと伝える能力を養う
・論理的思考により見えていないものを想定する想像力を養う

この二つが大事だなと思う。

学校の勉強とはいえ学問の一つ、学問体系の中にある。

それは再現性があり、かつ他者が客観的に証明できるものということだ。

論文で発表され、検証が済み、確認されているもの、あるいはほぼ確実だろうと思われているもののうちの簡単な部分が学校教育になっている。

つまり文字や言葉で他人に伝えることが可能な情報になっているということだ。

「とにかくいいからこれはこうなの!」というのは学問ではない。それが可能なら宇宙人だって存在が証明されたことになる。

どこかの学者が論文で発表したものが要約、簡略化されて教科書に載り、それを教師が生徒に理解させる。

こうして情報が伝わったことになる。

同級生で成績の良いやつに宿題のわからないところを聴くと丁寧に教えてくれるやつがいる。

彼は授業の内容を理解してその演習問題のポイントを押さえているから、他人に説明できる。結果、成績が良い。

それを理解してない人に同じことをたずねても「たぶんこう」としか言ってくれない。

それは伝えられた情報の何をどのように理解しているかの差による。

これが出来ている人は、何をどう言えば自分が言ったことを理解できるかも把握している。

一度説明して相手が理解しなければ、「わかりやすく言うと」と説明を変えることもできる。

自分が理解していることを相手にも理解させるということは、自分が言ったことが相手に正しく伝わったということだ。

これはこの情報化社会ではとても大事なことだ。自分が言ったことはつまり情報なのだから。

もう一つ。

Aという事象を提示されたときに、Aというものがそこにあるということ「以外のもの」を想定する想像力が必要だ。

Aが存在するにはBが必要で、根本的にはCがなければならないという具合に。

ただし、今提示されているのはAだけなので、そこからA以外のものを想定する想像力とその元になる知識が必要だ。

知識と思考がなければ目に見えないものは把握できない。

よくツイッターなんかの怪しい情報に振り回されている人は、このA以外のものが見えていない。

「こんなことがあった!ひどいと思いませんか!」みたいなツイートがあるとする。

パッと見、それだけだと確かにひどいことだと思うかもしれない。

しかし、それは個人的な状況によるものかもしれないし、他人には検証不可能なものかもしれない。

対象者が複数いればそれぞれに言い分があるだろうし、そもそも個人のツイートだから主観が入ってないわけがない。客観的にはどうか。

例えば高速道路の煽り運転の動画で、もちろん煽り運転するやつが一番悪いんだけど、追い越し車線を延々と走ってたらそれはそれでどうなのよ?走行車線に移って先に行かせれば?みたいなことだ。

と言った具合に、学校の勉強は何のためにするのか、というよりは、それをどう応用するかみたいな話になってしまったのだが...。

社会に出てから騙されたり無用な損害を被ったりしないため、トラブルを回避するために役立つと言えば、学生さんは納得してくれるだろうか(笑)。

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