生まれた日から政治的
2020/05/12
人間は考える葦である、ではないけれど、人間は生まれながらにして政治的な存在である(特に近代以降)、などとえらそうなことを言ってみる。
なぜかと言えば、人間が生まれると、出生届が役所に提出される。
それは人口が増えたことを意味し、自治体から出産祝い金が支給されたりする。
生まれた瞬間から行政に影響を与える存在だと言える。
さらには、日本で言えば、その年生まれた子供の数から6-7年後の小学一年生の児童数が概ね推計できる。
子供はやがて大人になり、労働をし、納税し、それが積み重なって一つの国家を形作る。
民主主義の国では、国民が主体的に政治に参加することが求められる。
というよりむしろ、民主主義は国民の主体的な政治参加の上に成り立つと言った方が正確か。
福沢諭吉も言うように、賢い国民は賢い政治家を選挙で選出し、愚かな国民は愚かな政治家を議会に送る。
政治家が腐敗しているとしたら、それは国民がその存在を容認したのであり、先に政治が腐敗したのではないということだ。
であればこそ、政治と政治家が腐敗しているとしても、それを倒せとは言わない方がいいのである。
なぜなら、議会制民主主義で間接選挙の国では、それは自らに死ねというのとほとんど同義だからだ。
愚かな国民があてずっぽうに投票したり、考え無しに投票するから、愚かな政治家が生まれるのだ。
国民が賢ければ、愚かな政治家が生まれることが絶えるとは言わないが、割合としては少なくなるはずなのだ。
さて。
人間が、生まれながらにして政治的な存在だとして。
それはつまり、政治に興味関心意見を持つことがむしろ自然だとも言うことができる。
政治的な存在が政治に関心が無い方がむしろ不自然だろう。
政治とはすなわち、人間が集団になった時の運用のことだ。
人が複数存在する時点で、同時に政治も存在する。
それが何百万、何億と集まればその重要性はさらに高まる。
日本は民主主義で自由主義の国だ。
そこでは、政治的な意見を言う自由も言わない自由もある。
そして、一部の専門職の人以外のほとんどの人は政治については素人、ニワカ、半可通と言える。
公の場で門外漢が頓珍漢なことをいうと批判を受ける。
今世紀はSNS上で見ず知らずの人との距離が近くなっている。
軽い気持ちでつぶやいたことに対して、ガチレスが沢山来ることはよくある。
ネタツイートがバズってしまったことがあるオレが言うんだから間違いない(笑)。
ドイツの諺で「誰もが最初は初心者」というように、政治についてだって誰もが最初はド素人なわけだ。
そういう人だって、自分の意見を好きに言う自由はある。
ただし、それが(SNSを含む)公の場であった場合、それなりに詳しい人などから反対意見を出されたり、批判される可能性はある。
詳しい人でなくてもなんだかんだと言ってきたり、頓珍漢な指摘をしてくる人だっている。
公の場での発言はそういうリスクがある。
これは覚えておく必要がある。
小学生だろうが、高齢者だろうが、今や公の場に自分の意見を出すことができる。
そしてそれにはリスクが伴う。
そのリスクは発言が増えるほどに高まる。
だから、発言にはよほど気を付けないといけない。
それが織り込めない、覚悟できない、引き受けられないと言う人は、あまり発言をしない方がよい。
それがその人のためだ。
それを踏まえてなお発言を続ける人だけが、身近な公であるSNSで発言を続けることができる(明後日の方向の人もいるにはいるけれど)。
というわけで、政治の発言は、気を付けないと傷つくよ、という話。
情報が無数にある、それでいて発信が依然と比べて格段にしやすくなった昨今だからこそ気を付けたい。